心にナイフをしのばせて

心にナイフをしのばせて

心にナイフをしのばせて

えらい本を読んじゃったなあ、とため息が出た。
ブログ「嫁に隠れて本を読む」で知った本。
http://www.joqr.net/blog/book/archives/2006/08/post_31.html
内容の紹介はここに尽くされているので読んでほしい。


15の息子を同級生に殺された母は、加害者だってあんな事件を起こしたのだからふつうの職業には就けないだろうと思い、それを不憫がりもした。ところが、犯人の少年は大学を卒業し、弁護士として活躍していたのだ。


――あまりにセンセーショナルな事実に仰天するが、本書の眼目は実はそこにはほとんどない。突然に家族を殺された遺族の人生を丹念につむいで、読者に追体験させることにある。著者はそのために両親の生誕地にまで足を運び、周囲の証言を集めて、家族一人ひとりの姿を描き出そうとしている。そして成功した。家族が殺されるということの途方もない重さを伝えられていると思う。


帯にあとがきからの引用、

歳月は遺族たちを癒さない。そのことを私たちは肝に銘じておくべきだと思う。

をよりわかりやすい形で、被害者の叔母が語った一文がある。

こういう事件があると、よく時が解決するなんていうけど、義兄さんは洋ちゃんが亡くなった時点で自分の時間が止まってしまったと思うんだよ。

荒野へ

荒野へ

荒野へ

アラスカの荒野で孤独に餓死した彼=クリス・マッカンドレスは、旅人だった。彼は、偏屈だけれど魅力的な人柄で、出会った人々に強い印象を残しては、また次なる空の下へと旅立っていった。まるで映画のようだなあ。と思ったら、本当に映画になるそうな。
http://cinematoday.jp/page/N0007771
一部の人々はなぜ放浪し、荒野を目指すのか。それが本書のテーマ。今の生活から逃げたかったり、生きていることの実感がほしかったり、見知らぬ世界への好奇心だったり、若さ故の闇雲な情熱だったり、いろいろあるんだろうけど、彼の場合はどうだったのか。結局わかったようなわからないような。ただ、こんな一文がヒントになりそう。

 ウッドスン・ハイスクールのクロスカントリーのチームメイト、アンディー・ホロヴィッツは感慨をこめて、こう言っている。クリスは「生まれてくる世紀をまちがえたんだ。彼は現代社会で許されている以上の冒険と自由をもとめていた」と。アラスカにやってくる途中で、マッカンドレスは地図上の空白地を発見し、地図に記載されていない地域を放浪したがっていた。だが、一九九二年には、地図上の空白地は、アラスカにも、どこにもなかった。ところがクリスは奇妙な理屈で、このジレンマにたいするみごとな解答を見つけだしていた。きっぱりと地図を捨てたのである。ほかのどこにも空白地がないとしても、地図を捨てることによって、彼の頭のなかでは、大地は未知のまま残っているわけだ。(本書239ページ)

K2 嵐の夏

K2嵐の夏

K2嵐の夏

『K2 非情の頂―5人の女性サミッターの生と死』にも登場したジュリー・トゥリスとバディのクルト・ディームベルガーの遭難体験を、クルト自身が記した本。おおよそのところは『非情の頂』で読んでいるので、こちらはより詳細に、一歩一歩、雪を踏みしめ、かき分けていく様子に寄り添っていくことになる。しかし、8000メートルという高度は人をおかしくさせるものなんだなあ。
訳者は『非情の頂』と同じ人で、やっぱり読みやすい。アマゾンのマーケットプレイスを見るとどえらい値段がついているが、版元の山と渓谷社に直接注文したらちゃんと買えた。

K2 非情の頂―5人の女性サミッターの生と死

K2 非情の頂―5人の女性サミッターの生と死

K2 非情の頂―5人の女性サミッターの生と死

世界ナンバー2の高峰K2の頂に立った女性5人は皆、下山中か別の8000メートル峰で亡くなっている(本書の執筆時点で。印刷間際にまた一人、スペイン人女性が登頂した)。
−という因縁を追いかけた本。結果わかったことは、訳者もあとがきで書いているとおり、5人はまるでバラバラの人間だということ。
だから、なにか謎解き的なおもしろさがあるわけではない。著者はただ、5人への愛情を込めてその生涯を描き出す。何か共通点を探すとすれば、みなとても生き生きしていて人間的ということだろうか。読む方はいずれ死ぬと言うことがわかっている女性たちが生き生きと描かれていることに胸の痛みを覚えてしまうが、死は静かに、あっさりとやってくる。
1人1冊の本になってもおかしくない人生なわけだから、5人分となると分厚くなるのもしかたがない。判型もA5と大きいので、手を出しづらいかもしれないが、訳文はかなり読みやすく、著者も山岳の専門家ではないので、素人にもわかりやすい内容になっている。

梅里雪山 十七人の友を探して

梅里雪山―十七人の友を探して

梅里雪山―十七人の友を探して

「ここは中国雲南省の最高峰・梅里雪山、標高六四七〇メートル」という冒頭の一文を読んで、旧知のid:ruruchanの心のふるさとの話だなあ、と興味を持った本。行ったことありますか?

梅里雪山とは、著者のサイト(→http://www.k2.dion.ne.jp/~bako/index.html)から引用すると、

「梅里雪山(メイリー・シュエシャン)」は、中国南西部にそびえる長さ30kmの山群の総称である。そこには6,000メートル以上の頂が6つ,1年中雪におおわれる頂が20以上ある。山群の最高峰(6,740メートル)は,チベット語で「カワカブ(白い雪)」とよばれている。
 梅里雪山は、チベット自治区四川省雲南省にまたがる「横断山脈」の怒山山系に属する。

この山での登山隊の遭難、遺体捜索活動、そして巡礼の旅の記録が本書。遭難とは、再び著者のサイトから引用すると、

梅里雪山の主峰カワカブの最初の登山は、1987年に日本の上越山岳協会によって試みられた。この登山は、氷河を突破できずに終わっている。
 1989年と1990年、1996年には、京都大学学士山岳会(AACK)、中国登山協会、雲南省体育運動委員会の3者の合同登山隊が、本格的な登山を行なった。が、いずれも登頂できなかった。その2度目の登山で、雪崩により17人が遭難するという大惨事が起きる。
 この間、山群第2の高峰チョタマ(6,509m)にアメリカ隊が挑戦したが成功していない。現在に至るまで、梅里雪山に6座ある6,000m峰はすべて未踏のままである。

このあたりのことをあらかじめ踏まえておかないと、唐突に遭難シーンから始まってどんどん話が進むので山岳に疎い人間には取っつきにくい。専門用語も特に説明がないのも辛い。BCってなに? ツェルトって、コルって??という状態。だいたい、なぜ梅里雪山に登りたいんだ?
相当な悲劇のはずなのに、筆は粛々と進められている。地元民との梅里雪山を一周する巡礼の旅なんか、もっと情緒たっぷりに描いて泣かせにいくことだって可能だろうに、えらく淡々としている。
とはいえ、なぜかどんどんページを繰ってしまった。おもしろかったのだ。写真も美しい。満月に照らされた梅里雪山は、まさに「神の山」としかいいようがない。チベットの子供たちの笑顔もいい。

残忍であればあるほど

世田谷一家殺人事件―侵入者たちの告白

世田谷一家殺人事件―侵入者たちの告白

本書に書かれていることの信憑性については何とも言えない(同じようにジャーナリストが事件を追った『桶川ストーカー殺人事件―遺言 (新潮文庫)』みたいに記者が犯人の居場所をつきとめて撮影までできていればよかったんだけど)。ただ、著者が描き出した犯人像についてはリアリティを感じた。

 彼らに精神的な何かは必要ではないのである。痴情、怨恨、あるいは復讐が原因となった犯罪は一切ない。
 またグループ内では相互に競争心が芽生える、ともいう。だからこそ、大きな犯罪をやりとげて自己顕示を行うのである。これが彼らを特殊なグループとして際立たせている。思いのほかきついグループ内の縛りも、彼らを自己顕示に駆りたてる。
 そして、もう一つ、とりわけ重要なのは、このグループが犯罪を行うのは、この日本国内のみである、という点である。そして、その犯罪が残忍であればあるほど、彼らはグループ内で優位な地位に立つことができるというのだ。
 メンバーには留学生が多いだけに、それなりの頭脳は有している。そして、極端な反日精神をもちあわせているわけではない。ただ、彼らの犯罪にたいして、この国があまりに無防備なのである。
 自分たちをいつまでも下級外国人扱いする「あの目がいやで」積極的にグループに加わり、やがて中心になっていった韓国人がいた。その一方でセキュリティーに無頓着でばかみたいに人を信じる日本人からカネを奪いとるためにグループ入りしたという中国人もいた。(本書 p143)

シリアルキラーをヒーロー視する精神性と似ている。幼稚だけど、そういう精神性は確かに存在する。

映像化可能!

チョコレートコスモス

チョコレートコスモス

作者の手のひらで躍らされて、いいように興奮させられてしまった。

ストーリーの主軸は業界の重鎮が開いた二人芝居のオーディション。演劇を始めたばかりの無名の女の子が、溢れんばかりの才能をまさに溢れさせ、夢の舞台へ向かって突き進む物語。

襲い来る困難の数々を知恵と勇気で乗り越えていく冒険小説、警戒厳重な美術館から、銀行の大金庫から魔法のように宝物を盗み出す怪盗の活躍、あざやかなトリックが次々に繰り出されるミステリー……いろいろ例えを考えてみたけど、ミステリーがいちばん近いかな。

この驚きと興奮を表現するなら、「その手があったか!」の連続、だから。オーディションの課題という正解のない謎に挑むハウダニット・ミステリーと云えばいいか。強敵たちが見せつける名演、熱演、力演、さあ、われらが佐々木飛鳥(主人公)はどう立ち向かう?

構造だけ取り出せば週間少年ジャンプ王道のトーナメント漫画っぽいが、競技は「演技」だ。相手を殴って気絶させたら勝ちってわけにはいかない。芸術という完成がものを云う勝負で勝ち負けをどう読者に納得させるか、この難問に作者は真正面から答えて見せた。かなり即物的な形で、素人にも実に分かりやすく、しかも瞠目させて興奮させてみせる。これはかなり凄いことだ。

文章なんだから、観客の反応の凄さやライバルの驚きの描写で表現したり、雰囲気だけを描いて逃げる手もあるのだ。そういった技法も援用はするけど、でも恩田陸は逃げない。小説の売り文句の一つに「映像化不可能」というのがあるが、これは映像化可能だと思う。それが凄いところなのだ。

あとは蛇足。読んだことはないんだけど、美内すずえガラスの仮面』もこんな感じの話らしい。それで、竹熊健太郎が『ゴルゴ13はいつ終わるのか? 竹熊漫談』で『ガラスの仮面』の最終回を予想してるんだが、「ふつうの人間には演じることのできない」演劇を絵にするという難問への答えとして「描いて、描かない」という描き方で逃げる方法を捻りだしている。だけど、たぶん恩田陸は、そのまんま描いちゃったのだ。